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[2022/10/06] 
☆ コンシェルジュだより 2022年10月号 ☆彡

 

☆ コンシェルジュだより 2022年10月号 ☆彡

被保険者各位

 

『人生と健康と死を考える』

 

「私の尊敬する京セラの創業者、稲盛和夫氏が亡くなり、イギリスの君主として歴代最長の70年にわたって在位してきたエリザベス女王が亡くなった。新聞の訃報欄にも知っている人がよく載るようになり、否が応でも、それが自分の人生における現在の立ち位置・残り時間であることを私に囁いてくる・・・」

お元気ですか?

読書の秋・思索の秋、チョッと重めのこんな出だしのコンシェルジュだよりも良いかと、書いてみました。今月は、人の「生・老・病・死」と「健康」との関係をご一緒に考えてみましょう。

 

「生きる」とは何か?

私は5-6歳の頃から死が怖くてたまらない子供でした。「死んだら、今見えているのもが全て消え、大好きな両親の顔が見られなくなり、何もかも消えてしまう・・・」という恐怖に襲われていました。

小さいながらに、私はこの恐怖から逃れることを考え、「今だけを考えて生きよう」という結論に至ったことを、昨日の事の様に思い出します。

66歳になった今はと言うと、「1日1日を悔いなく生きる、今できる100%を出し切る」と生きてきた結果、やりたいことはやれ、得たいものは得て、近居する5人の孫の笑顔に、自身のいのちの流れを感じ、幼少期にあれほど感じた恐怖は感じなくなっています(死の直前になっても、そのような状態であるかどうかはわかりませんが)。

これを読んでおられるみなさんは「生きる」とはどういうことだと考えておられるでしょうか?

私は、小中学生を対象に、「いのちの授業」という出前授業を15年間程担当させて頂きました。そして、そこで最初に話すのがこのテーマです。私が考える「生きる」とは「生まれた瞬間から、いつ訪れるかはわからないけれども、確実に未来に存在する死に向かって歩くこと」です。

釈迦は、人として避けることができない4つの苦しみを「四苦八苦」の四苦、即ち「生・老・病・死」とあらわしました。生きる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、そして死ぬ苦しみです。しかし、これをよくよく考えてみれば、これは生物全てが持つ自然なライフサイクルであり、月の満ち欠けと何ら変わらない自然現象であることに気づきます。

どう生きれば良いのか?

1952年に監督:黒澤明、主演:志村喬の「生きる」が映画化されました。名作ですので、ご覧になった方も多いかと思います。市役所の市民課長役の志村に胃がんが見つかるところから映画は始まります。それまで書類の山を前に判を押すだけの「時間つぶし」のような仕事をしてきた志村が、死を意識したその時から、これまでの自分の人生の意味を振り返り、酒場で知合った小説家に連れられ、行ったことのないパチンコやダンスホール、ストリップ小屋など、夜の街を徘徊します。しかし、そのような一時の放蕩は志村に虚しさだけを残し、一番の信頼者と思っていた一人息子からの思わぬ誤解も招いて、一人孤独に陥ります。そんな中、市役所の体質に嫌気がさして辞めた若い小田切みきに惹かれ、一緒に時間を過ごすも、若い小田切は自分に寄せる志村の思いや執着が、正直、気味が悪く怖いと伝えます。その時初めて志村は自分は胃がんで余命半年もないことを小田切に告げます。役所での志村の様子を観ていて「ミイラ」というあだ名を付けた小田切が、「課長が無駄に使った人生を取り戻しましょう。今までの課長は時間を潰してるだけで、生きてるとは言えない。」と言ったのを機に、志村は「何かしたい!」と強く思います。そして、それまでたらい回し、先送りにされていた下町のぬかるみの土地を公園へと造り変える事業に情熱を燃やし始めます。雪の降る夜、完成した公園のブランコに乗りながら「命短し恋せよ乙女・・・」と、ゴンドラの唄を楽しそうに、また満足げに歌いながら志村は死んでいきます。

105歳で亡くなられた日野原重明氏(元弊社顧)は、「人生は、主役・監督・脚本・演出の全てを自分がやるドラマのようなものです。あなたはこの人生劇場のフィナーレをどのようにしたいですか?」と講演の中で良く言っておられました。そして、聖路加大学看護学部の1年生に「母のお葬式に来られた弔問客へのお礼の言葉」を書かせる授業で、「書いてる最中、『お母さんが元気なうちにあれをしておけば良かった』『これを言っておけば良かった』という思いが湧き出てきたのなら、今日帰ってからすぐにやりなさい。何故なら、人は明日も生きているという保証がない中に生きているからです」と言っておられました。

「人生、どう生きれば良いのか?」は、人間にとっての大命題だと思います。従って、そう簡単に答えの出る問題ではないと思いますが、日野原氏が常々言っておられた「より良く生きる(well being)」や、仏教で説くところの「衆生所遊楽(遊び楽しむが如く生きる)」や、新訳聖書の「明日のことを思い煩うなかれ、一日の労苦は一日にて足れり」のように、不確実な未来を考え過ぎてそれに振り回されることなく、「今・ここ」に「良い(楽しい)状態でいる」ことが重要なのではないかと私は考えます。そして、「健康である」ということは「今、ここに、良い状態でいる」ことの必要条件の1つなのではないかと考えます。

 

WHO(世界保健機関)の健康の定義

WHO憲章には、健康の定義として次の様に書かれています。「健康とは、肉体的、精神的及び社会的に完全に良好な状態(well being)であり、単に疾病又は病弱 の存在しないことではない

私の友人に優秀な心臓血管外科医がいます。彼と寿命の話をしたとき「お金さえ出してくれれば、私は鈴木さんの心臓(心肺)を動かし続けることができます。でも鈴木さんはそれを望みますかね?」という会話になりました。「1分1秒でも長く生きたい」は人間の心情だと思いますが、心肺は動いているが、自分の行きたい所にも行けず、やりたいことも、話したいこともできない人生を、私たちは1分1秒でも長く生きたい思うでしょうか?「健康寿命」の意義がここにあります。

人は誰もが「幸せな人生」を送りたいと、自らが望む地位や名誉や財産や美貌やスキルや健康、そして素敵な伴侶やかわいい子を得ようと一生懸命に生きます。しかし、そのようにして得たものは死と共に全ては返していかなければなりません。これは自然の法則なので、執着しても残念ながら叶いません。このことを日野原氏は「人間の幸福は結局のところ『having(何かを得ること)』ではなく『being(どうあるか?)』だ」と言っておられました。

私が好きな相田みつをの詩に「しあわせは いつも自分のこころがきめる」があり、日蓮が弟子に残した手紙には「蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり」とあります。

この2つは、最後は「心が良い状態(well being)であるかどうか」が重要であることを示しているのではないかと考えます。「こころこそ大切なれ」の人生を共々に。

 

健康保険組合コンシェルジュ(株)ウェル・ビーイング代表取締役 鈴木 誠二

 

 

 

 

 



 




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